Startup Story of Cobalt

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Cobaltは1996年にMark Orr, Mark Wu, Vivek Mehera の三人によって立ち上げられた。
Vivekのオフィスルームの壁には初期のQubeのデザインスケッチが額に入れて飾られている。 日付けは1997年3月31日。 最初の製品Qube 2700が出荷されたのはそれからおよそ一年後である。 ここではCobalt社がどのようにして立ち上がったのかを説明する。 その製品とおなじように、多くの人達にCobalt社を気に入って欲しいからである。

ここにある一連の記事は、ユーザ会の安田他が少しずつ集めた情報を元に書かれている。 多くVivekのインタビューから話題を集めた。 Vivekや他の関係者のすべてに感謝したい。

Feb, 2000.
Yutaka Yasuda, Cobalt Users Group.
(usersgroup@cobaltqube.org)

Qube デザインがうまれるまで

まず Cobalt のシンボルとも言えるQubeのデザインが、 どのようにして完成したかについて紹介したい。

最初のCobaltの製品である Qube 2700 WG は、1998年3月の DEMO で発表された。 当時 Qube を目にした人は、恐らく誰もがその筐体デザインに驚き、魅かれただろう。 ほぼ20cm立方という小ささと、コバルトブルーに着色されたスケルトンデザイン、 正面に輝くグリーンのLEDは今までのゴツいコンピュータを見慣れた我々には実に新鮮だった。 誰もがその名前、 Qube をすぐに覚えた。
これまた斬新なデザインと、スケルトンボディに身を包んだ iMac が発表されたのは実にこの 2 カ月後、1998年5月6日 (発売は8月) のことである。

Qube のデザインには二人のデザイナーが関わっている。

最初の外形デザインは Bill Scott が手掛けている。 Palo Alto 在住のデザイナーで、彼自身のデザイン会社 Form & Image を運営するかたわら、スタンフォード大学でデザインの講師もしている。 彼が最初に起こしたデジタルイメージは SGI の Alias (Graphic Software) によって作られていた。1997年1月下旬のことだ。
このイメージをハードウェア製造のために brush up したのが John Tang だ。 つまり Bill がアーティステックな面を、 John がメカニカルなエンジニアリング面を処理したと言う事になる。 John Tangは1999年12月時点では THINK OUTSIDE というデザイン会社に所属し、 Palm Pilot 用の折り畳み可能なキーボード STOWAWAY を手掛けている。 Newtonも彼のデザインとの事だ。

1998年の日本法人設立パーティの時に、私は社長の Stephen Dewitt から「この会社を何か Cool なものにしたくて我々は最初に色を決めた」と聞いた。 この Cobalt の色を思いついたのは Mark Orr だ。 グリーンの LED は Bill Scott のアイディア。 Cobalt社のマシンルームには色の選定のために片目に青のLED、もう片目に緑の LED を付けられた Qube 2700 が(1999年11月時点で)今も稼働している。 このマシンをスタッフで見くらべて、結局緑が選ばれた。 一番開発に時間が掛かったのがこのライトだったんだと言うスタッフは多い。 (勿論冗談だが、そのくらいCobaltの開発速度は速い。)
Vivek がまず立方体 (Cube) の形を思いつき、 Cobalt Cube と言うのは良い響きだと思った。 そして Mark Orr が C を Q に変えた。 その方が見た目も響きも良いと思ったからだ。

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最初の Cobalt 製品は Qube 2700 である。 その番号と、その完成度の高さから、それ以前にも Qube 1100 などと名付けられたプロトタイプが存在するのではないかと考えられがちだが、それは違う。 その数字は Cobalt の原子番号が 27 であるところから来ている。 2700 の次の機種は発売前に Qube 2800 と呼ばれていたが、最終的には Qube2 と名付けられ、この数字はシステム識別のための型番などに名残を残すのみとなった。



こぼればなし

日本では「こばQ」という呼び名を耳にする事が多いと思う。 これはユーザ会の人達(パイナップルカンパニーの人)が言い出したのだが、 今ではユーザ会を超えて販売店などにも定着したようだ。
ユーザ会の一部の人達がそう呼び始めたのがあっという間に全員に感染したと言うわけだ。 もちろん RaQ のことは「らっQ」と呼ぶ。
Vivek にこのことを説明すると「わかったわかった(Oh I see)」と笑って喜んでくれた。

スタートアップまで

Cobalt 社をスタートするより以前、Mark Wu, Mark Orr, Vivek Mehra の三人は共にAppleの同じ部門にいた。 Information Appliance (日本では情報家電と訳される)の部門だ。

Vivek は Newton の lead engineer となるために SGI をやめ、Apple の Business Development 部門に移った。Vivek が関わった次世代の Newton 製品は完成し、出荷直前の状態まで進んだが、それにもかかわらずアップルが Newton テクノロジーを途中で放棄してしまったため、遂に世の中に出ずに終ることになった。 それは不運だったねと言うと彼は実に残念そうに Yeah と答えた。
Vivek はしかし、この製品それ自体非常に面白く、 自身もそのプロジェクトを十分楽しんだと言う。

それから Newton チームを離れて Pippin のハードウェアエンジニアリングマネージャとなった。
そこでは 15 人ほどのチームを率いて、すべての部品の設計に関わり、 ASIC の設計までやっていた。彼らは ASIC の開発もしていたのだ。 彼らは常にすべてのレベルの設計 (Industorial Mechanichal Design) について、非常に密にバンダイと連係しながら作業していた。 そのせいで当時 Vivek は何度も来日している。 東京と京都、特に京都はバンダイのチームと何度も訪れたという。

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こぼればなし

ところで私自身最初の Newton を買った一人であり、こんなところで私が好きだった Newton の開発者に会えるとは思っても見なかった。 私が Newton を買ったのは、そこには新しいチャレンジが多く含まれていたからだ。 Newton script, resource soup, repository など、すべてが新しかった。 そこには Mac が昔 3.5inch FD や SCSI でやったようなチャレンジが溢れていた。 私はチャレンジが好きだ。だから Newton technology, Newton architecture が好きで最初の Newton を買った。 私のこの説明を聞いている間、彼は good! を連発して答えてくれた。

アップルは Cyberdoc, Opendoc テクノロジーも捨ててしまった。ここ数年、 新しいチャレンジは大成しない傾向にある。私は HP の New Wave などの コンパウンドドキュメントが何年費やしても、また何度現れても成功しない ことについて残念に思うと言った。結局投げ捨てられてしまうのだ。
「まったく残念だが、いつかきっとどれかがうまく行くよ」と彼は答えてくれた。
"Yes disappointing but you know sometime that what a happens. sometime that exactlly what a happens."

彼は Apple 以前も含めて、幾つもの製品の開発に携わっている。 多くの魅力的な製品を開発する彼は、それらの製品は 「Pationately products (情熱的な製品)」でなければならないと言う。
そう、誰もがそのような製品を待っているのだ。


Vivek は Pippin グループで Mark Wu と Mark Orr に出会った。

Mark Orr と Mark Wu は Information Appliance のビジネス向け開発部門にいた。 そして彼らは共に一つの事を決めた。
「もう我々は大企業で十分に働いた。だから単独で何かやってみたい」と。
そうして彼らは Apple を離れ、Cobalt という会社をスタートさせた。 Vivek が Apple をやめたのは1996年の11月である。

発足当時の社名は Cobalt Microserver Inc. である。ドメイン名は cobaltmicro.com だった。後に Cobalt Networks Inc. cobaltnet.com へと変更された後、ドメイン名のみ三度 cobalt.com と変更されて現在に至っている。

独立した後、まず彼らは自分たちがどのようなプロジェクトを始めるのかを考える事に多くの時間を費やした。 何と1996年の11月から1997年の1月半ばまで 2 カ月ほども費やしたのだ。 さまざまなアイディアを考え、彼らは Cobalt を 1 月の半ばにスタートさせた。 彼らは事業計画を2月までに完成させ、それができあがると、 Founding チームはそれぞれでこのあたりのベンチャーキャピタルを回るべきだと提案した。

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Vivek のオフィスの壁には Qube の最初のデザインスケッチが飾られている。 この絵のサインにある 1997年3月30日の少し後、5月に、最初のクレイモデルが出来上がった。
そしてこの4月から、Mark Wu, Mark Orr, Vivek の三人は資金を得るためにクレイモデルを持ってベンチャーキャピタリストを回った。 彼らのアイディアは非常に優れており、6月、彼らは遂に資金を得る事に成功した。 それがCobalt を立ち上げるためのシードマネーになった。

次にベンチャーキャピタルからの資金がリリースされるまでの間、 この数十万ドルのシードマネーを使って彼らは会社をスタートさせた。 そして次のステップとして、彼らはもっと人を雇おうと思った。 しかし彼らは資金を持たず、スタートアップに幾らかかるかも分からなかったので、彼ら founder 達は6カ月の間、一切の給料を取らなかった。 しかし雇ったエンジニアには常に給料を払った。 ようやく再びベンチャーキャピタルからの資金提供を受けてから、彼ら自身が給料を得られるようになったという。

彼らは1997年の9月には ADAMNET のスタッフに Qube のプロトタイプを見せるために日本を訪れている。
Mark Orr は今でもこの時のクレイモデルを含めて、様々な種類のプロトタイプやクレイモデルをオフィスにもっているそうだ。



草創期の開発こぼればなし

私はこれらのプロトタイプの幾つかを Cobalt 社のオフィスでエンジニア達に見せて貰った事がある。 彼らは誇らしげにそれぞれについて説明してくれた。

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そのうちの一つはスロットが三つ存在し、CPU カードを二つと PCI 拡張カードを 一つ収める事が出来るようになっていた。 Linux はこの頃既に SMP によるマルチ CPU を実現していたし、中速程度の CPU を SMP 構成にするのはタフなサーバを構築するために適したレイアウトである。 しかしこのサイズのマシンでのマルチ CPU は前代未聞であり、もし実現していたらそれはセンセーショナルだったと想像する。

また、完成直前のプロトタイプの一つは、製品版とほとんど同じレイアウトながら、シリアルポートを一つ、10/100Mbps NIC、そして SCSI インタフェイスを備えていた。 更に CPU ボード上のピンコネクタには 3cm 平方程度のサイズのカードをつけて、シリアルポートを一つ増設する事すら考えられていた。
これらの機能はローエンドの製品を $1000 以下で出荷するために削除され、結局製品版である Qube 2700 では 10Mbps NIC のみをインタフェイスに持つ、極めてシンプルなスタイルになった。
最後まで採用を検討されていたシリアルポートについては Qube 2700 の基盤上にコネクタやチップのパターンまで残っており、拡張シリアルのためのピンコネクタも CPU 基盤上に実装されたままになっている。

これらの機能のほとんどは Qube2 で再び採用されることになる。 私は Qube2 の製品仕様を見、また実物を見た時に、よくこれだけ詰め込んだものだと感心したが、その仕事は彼らにとっては難しい問題ではなかったのだ。 彼らはむしろそれを超える製品を最初の段階で作り終えており、ただコストのためにそれを削って出荷したのだ。 彼らの開発力の高さがうかがえるエピソードである。


Vivek は1999年12月に開催された Linux Conference のセッションの一つに出席した際、この頃行なわれた重要な意思決定について幾つか語っている。
まず彼らは Stability, Scalability, Performance, Reliability などの面から OS には Linux を選択した。 小さなリソースでも高速に動くため、小さなマシンに適している Linux を選ぶしか解がないと思ったという。

CPU に一般的な Intel 互換製品ではなく、 MIPS を選択したのはその性能と消費電力の低さのためだ。 当時、同じ性能なら MIPS なら 2W だが、Intel では 15W もの熱を発生させた。
小さなケースの製品では、熱の問題がない事はトラブルフリーにつながるのだ。 Qube のローエンド製品の消費電力はシステム全体でも僅か 20W だったので、実は冷却ファンは必要ない。 しかしファンがないと、「こいつら本気でサーバを作っていないな?」と思われてしまうので、仕方なくつけたのだと笑っていた。

MIPS CPU への Linux システムの移植は4カ月を費やして行なわれた。 ROM からうまくブートさせる事に2カ月もかかったが、実はこれが一番難しかった事だ。 開発資源がまったく既存のものとして存在しなかったのが辛かったという。 きちんと Disk からシステムがブートできるようになるまでは、カーネルすら ROM に入っていた。

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ところで当時、これらのカーネル移植の中心的存在として携わったエンジニアの一人が David Miller である。彼は Cobalt で働く以前に既に SPARC CPU への Linux の移植で有名だった。 Cobalt の MIPS カーネルの完成度が非常に高かったのも当然だろう。 こうした移植の段階でカーネルのメモリマネジメントのバグ (MIPS では不具合がある部分)も直した。 結局4-5カ月かかってコンパイラ、ライブラリ、デバッガを構築し、いずれも非常に stable なものになった。
こうして苦労したせいで、エンジニアは非常に慣れて、その後のチューニングなども含めた開発作業がうまくいくようになったという。
(因みに David Miller が手掛けた SPARC Linux も Cobalt システムも共に RedHat ベースであり、彼は後に Cobalt 社から RedHat 社に移っている。)

こうした日々を重ねて、最初の Qube が出荷されたのは1998年3月12日だった。 偶然にもその日は Vivek の誕生日でもあった。
"It was my birthday, so that was very good birthday present. March 12 1998, I was having dinner with my wife when I got a call that product was shipped. Very good."
"The memorial day."
"Yes, absolutely."
「その日は私の誕生日だったから、それは素晴らしいバースデープレゼントになったよ。1998年3月12日、最初の製品が出荷されたと言う連絡を受けた時、私は妻とディナーを食べていたよ。素晴らしい。」
「記念すべき日だね」
「そう、まったくね」

こうして彼らの製品は世の中に飛び出したのだ。

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僕らのはじまり

1998年4月、Cobalt に対して series B で投資を行なった NTT リースの花山氏は、同じく NTT リースが出資しているコンピュータ販売店 "ぷらっとほーむ" の鈴木氏に Cobalt を紹介した。 この店の Web には、いつも少し変わったデジタル製品が掲載される。 先鋭的なユーザはここを良くチェックし、最新の情報を手に入れようとしていた。
1998年の5月、Qube 2700 は "ぷらっとほーむ" の Web にひっそりと掲載された。 そして私たちユーザ会はここからスタートした。

いつものように"ぷらっとほーむ"をチェックし、偶然に Qube 2700 を見つけた私の知人は、すぐさま私宛てに「こんなの見つけたよ!」とその URL をメイルで送ってきた。 それを見た私はすぐに気に入ってしまい、やはりすぐさま別の友人たちに同じように教えて回った。
この青色の箱、Qube は、こうしてまるでチェーンメイルのような形で新しもの好きのエンジニア達にまたたくまに知れ渡っていった。

数日後、私はそうした新しもの好きの友人の一人である中内君に会うため、彼が働いているパイナップルカンパニーに行き、そこで Qube についていろいろ話をした。 だがそのとき私たちが知っていた事と言えば、せいぜいその形、色、そしてそれが Linux Box のサーバだ、ということだけだった。
そこに偶然社長である圓尾(まるお)さんがやってきたので、私は Qube を紹介した。 圓尾さんもひと目でこれが気に入り、あちこち Cobalt 社のページを見ていたが、 僅か5分の後、彼は耐え切れずに Order ボタンをクリックしてしまった。

二週間後、パイナップルカンパニーに Qube が届き、我々は初めてその実物を手にした。 Qube 以前に Qube のように小さなマシンはなく、我々はまずその小ささに改めて驚いた。
いつものように我々は、まず電源を入れる前にネジを外し、中身をチェックした。 そしてそれがオモチャではない、本物のマシンである事を理解した。 それから蓋を戻して電源を入れ、無事に稼働する事を確認し、はじめてそのユーザインタフェイスを見た。 素晴らしかった。

毎年6月、日本では Networld + Interop が開催される。 圓尾さんは Cobalt 社と連絡を取り、Interop に Qube が展示されることが分かった。 我々は毎年 Interop に行っている。 圓尾さんは Cobalt 社の Desa が会期中に来日する事も知り、東京で会う約束をとりつけた。
そうして私たちは彼女に会い、さまざまな事を話した。 その中で我々が現在のユーザ会を作ったきっかけとなった会話は以下のようなものだ。

U.G.: 僕達は皆Cobaltが気に入ってます。ファンクラブを作ろうと思うんです。
Desa: もし作るのならQubeを一台プレゼントします。是非始めなさい。 Officialとして認めますよ。
U.G.: ....(メンバーが顔を見合わせて1秒後)....じゃあやろう! つまりこれがユーザ会最初の日ということだよ。

こうして1998年6月4日は、我々にとって記念すべき最初の一日となった。

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我々は早々に cobaltqube.org を取得し、Web を立ち上げ、メイリングリストを作った。会員数はみるみる増えていった。
それからかなり遅れて数カ月後、Desa から約束のサイン入り Qube 2700 が届き、それまで臨時で動かしていた SPARC Linux Box (これもカーネルエンジニアは Cobalt と同じく David Miller) から Qube に入れ換え、以来ずっと運用し続けている。 このサイトはオープン以来、世界中からブラウズされており、ユーザ会宛には各国のユーザからのメイルがひっきりなしに届く。
2000年2月末現在、メイリングリスト(日本語版のみ)の購読者は900を超えている。



こぼればなし

はじめてDesaに会ったとき、圓尾さんが「 Cobalt Blue もいいが、いろんな色の製品が欲しい」と彼女にリクエストした。 すると Desa は渋い顔で「 Cobalt Blue は Cobalt Company のプライマリ・カラーだから他の色は作らない」と答えていた。
このやりとりの後、ユーザ会が Web を立ち上げた時、松浦君が5色の Qube の画像イメージを作成し、ユーザ会 Web に掲載した。 このページは人気を博し、多くの人がほめてくれた。
後日、ユーザ会のメンバーが Desa のオフィスを訪ねた時、彼女の部屋の壁にはこの5色 Qube ページのカラー印刷が貼ってあったとのこと。 実は彼女もこのアイディアが気に入っていたんだね。

このユーザ会による多色デザインもまた、iMac のカラーバリエーション発表 (1999.1.6)に先んじる事半年(1998.6.10)であった。
(CobaltによるスケルトンデザインのQube 2700の発表も、やはり最初のiMac 発表1998年5月6日 (発売は8月) より二カ月も早かった。)


追記

Jan. 2001

その後、Cobaltは ISP 向けの製品、RaQ を発表し、続けざまに Qube2, RaQ2, RaQ3, RaQ4 と新製品を発表し続けた。 Gatewayをはじめとして、多くの会社との提携、Chili!Soft の買収なども行なわれた。 1999年の11月にはIPOを果たし、Cobaltは企業としての成功をおさめた。

そして 2000年の9月、Cobalt にとって大きな転機が訪れた。 SunがCobaltを買収したのだ。 今後、どのような変化が Cobalt に起きるのか実のところ良く分からない。

設立以来続けられていた、受注する度に鐘を鳴らす習慣は、2000年の11月、 買収が決まった後に私が訪問した時も続けられており、 偶然その場に居合わせた私は幸運にも鳴らすことができた。

2000年末には、新しい世代のCobalt製品と言えるQube3がリリースされた。 この先、Cobaltの未来がどうなるのか、1998年にそう思ったのと同じように、私は楽しみにしている。

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